『nothing hurt』

中学一年生から手塚と付き合っていて、体の関係もある不二は、手塚の留学を機に手塚と別れてテニスもやめようと密かに決意する。U17合宿のチームシャッフルで大和と対戦した直後の手塚に、不二は試合を申し込むが−−。





何もかもが美しく、傷つけるものはなかった



 昔から、手に入らないものが好きだった。
 離れて暮らす祖母が大好きで、夏休みやお正月に泊りがけで遊びにいった別れ際、僕は大泣きして別れを惜しんだ。いやだ帰らない、僕は、おばあちゃんともっとずっと一緒にいたいんだ。僕が泣くといつも弟がつられて泣きだしたから、両親はさぞ困ったと思う。けれどその我がままが通ったことは一度もない。帰りの新幹線の指定券は買ってあったし、大人たちはもちろん年の離れた姉にも予定があって幼い兄弟の寂しさに付き合ってスケジュールを変更してくれたりはしなかった。そうして弟は新幹線に乗るころにはケロリとして買ってもらったお菓子を食べはじめ、僕は一人でいつまでも悲しみにくれて、隣に座る姉の膝に頭を伏せて泣き疲れて眠ってしまった。
 お気に入りのコップが割れてしまったときも、僕は泣いた。それはむしろ直接的に身体的な痛みのせいでもあった。割れたコップに手を伸ばして、大きなガラスのかけらを僕はぎゅっと掴んだのだ。失われてしまったとわかったからこそ悲しくて、そうせずにはいられなかった。そうしてひどい痛みと流れる血に驚いて、僕はしくしくと泣いた。母があわててとんできて、僕の手を開かせてくれるまで、僕はそのコップだったものを手放せないでいた。それから病院に行ったのか、家で手当てをするだけで済んだのか、よく覚えていないけれど、そのときの傷はもうどこにも残っていない。それなのに、あのコップに描いてあったウサギのイラストを、僕は今でも思い出せる。
 小学校の入学式より、幼稚園の卒園式のほうが、僕には印象深い。今日この門から外に出たら、もう二度とここに通うことはないのだと、卒園という言葉の意味を僕はその時すでに知っていた。そのころにはもうあまり泣かなくなっていたから、じわりと滲んだ涙を袖で拭ったら、えらいぞ、周助、もう小学生になるんだもんな、と父に頭を撫でられた。
 卒業ばかりが別れの時ではないと知ったのは、誰よりも仲の良かった幼馴染が千葉に引っ越してしまった時だ。「転校しても友達でいよう」なんて、お別れ会でクラスメイトたちは口々に約束したけれど、この中の何人が来年も彼のことを覚えているだろうと僕はぼんやりと考えていた。みんな忘れていくのだ。僕だって少しずつ、彼への友情を薄くしていくだろう。彼が大切な友達だったことはきっと一生忘れない。けれど今感じている彼への好意や信頼や親密さは少しずつ少しずつ弱まり薄まっていくのだ。そうでなければ、いつまでも寂しく悲しいままだから、彼の不在に慣れていくことはむしろ必要なことですらあった。そうして、それでも僕は、彼と過ごしたかけがえのない時間を宝物のように胸の内に抱えていることができた。

 この世界に永遠に失われないものはない。
 僕は十にもならないうちに世界の儚さを知っていた。
 楽しかった時間には終わりが来る。クラスで一番成績が良くて褒められても、自分よりもっと頭のいい子なんていくらでもいる。仲のいい友達ともいずれ別れる。転校しなくてもクラス替え一つで距離ができるのだ。教室で飼っていた金魚は冬の寒い日に死んでしまった。朝顔もひまわりも秋になれば枯れる。校門の横に咲く大きな桜の木だって、何十年かすれば寿命を迎える。
 失われていくものを思うと胸が痛くて、切なくて苦しかったけれど、思い出はいつも美しかった。




 中学生になって、僕は二つのものと出会った。一つはテニスだ。なんとなく面白そうという理由にもならない理由で、僕はテニス部に入部した。青春学園が、かつては何度も全国大会に出場していたテニスの名門校だということは、入部してから知った。最初はその程度の興味しかなかったのだ。もともと向いていたのか、始めてみたらテニスはとても楽しくて、一年生のうちにレギュラー入りするほどうまくなった。いつの間にか「天才」なんて呼ばれるようにもなった。僕は昔から器用なほうだから、たいていのことは少し努力すれば人並み以上にこなせたので、自分にしてはずいぶんと頑張った努力の結果がそのように実を結ぶことは、当然の結果のように思えた。そうしてそのテニスがくれたもう一つのご褒美が、もう一つの出会いだった。
 僕なんかと比べものにならないほど、人並み外れてテニスがうまくて、それなのに人付き合いのめちゃくちゃ下手くそな、いびつな、本物の天才。手塚国光と、僕はテニス部で出会ったのだ。彼は真面目で融通がきかなくて、不器用で嘘のつけない、真っ直ぐな男だった。




「君はどうしてそんなに頑張るの?」
 僕は彼にたずねたことがある。
 どんな物事にもあまりにもストイックに取り組んでいるから、不思議だったんだ。もしかしたら彼は人造人間で「そのようにプログラムされているからだ」なんて答えが返ってくるんじゃないかと、ちょっぴり疑う程度には。
「ただ、強くなりたいだけだ」
 手塚は淡々と答えた。
 それはそうなんだろうけど、僕だってほかのみんなだって強くなりたいとは思っている。テニス部は、特に同学年の部員たちは、みんなモチベーションが高かった。けれど誰よりも強い手塚ほど、頑張っている人はいないと思う。むしろ結論が逆なんだろうか。強いのに頑張っているのではなく、頑張っているから強いのか。  けれど手塚がすごいのは、テニスだけじゃなかった。
「テニスの練習もして、予習復習もテスト勉強も手を抜かないんだね」
 手塚の手元の答案用紙に目をやる。それはどの教科もほぼ満点で、僕だって成績はいいほうだけれど、平均点で手塚に勝てたことはたぶん一度もなかった。
「当然だろう? 学問は学生の本分だ」
 何を言われているのかわからないと言った顔で、手塚は答えた。
「サボりたくなったことはない?」
「もちろん、必要な休憩は取っている」
「サボるのと休むのは違うと思う」
「そうか」

 それではサボるとはどういうことかとは聞かれなかった。手塚はサボることに興味がないのだ。どんな物事にも全身全霊で取り組んでいて、きっとそれ以外の生き方を知らないのだと思う。その分、彼の興味は非常に狭い範囲に限られている。狭く深く耽溺するタイプの、つまり僕とは正反対の人間なのだ。
 僕はなんでも器用にできたから、いろんなものをかじっていた。スポーツならスキーだって得意だし、カーリングをやったこともある。実はビリヤードもちょっとうまい。趣味は写真とサボテン集め、一時期はミュージカル映画やケルト音楽にもハマっていた。気になることはとりあえず始めてみて、そこそこ詳しくなると気が済む、広く浅いタイプ。
 それに比べて手塚ときたら、興味がないことには本当に興味がないのだ。流行りの歌もファッションも人気ドラマも行列ができるラーメン屋さんの名前も知らない。手塚が関心を持っているものを僕は正確に五つ知っている。それはテニスと、学業、登山、釣り、そしてもう一つ、僕だ。−−いいや、正確に言うと、僕ではなくて、僕としている恋愛とセックスに、手塚国光は熱心だった。

「それで、答え合わせはいいのか。解説してほしいのはどの問題だ?」
 テストが終わった後の日曜日、僕はそんな理由で手塚の家に遊びにきていた。付き合いはじめてから何度もお互いの家を行き来しているから、どっちのうちの人にも僕らはとても仲のいい友達として認知されていると思う。まさか僕らが友達と呼ぶには仲が良すぎる関係だとは思っていないと思うけど。
「うん。まあ、自分でやり直してみたらどれも解けたから、大丈夫かな」
 僕はにっこり笑ってそう言った。
 僕が答えるまでもなく手塚だってわかっていた。テストの答え合わせなんて、ただの名目だってこと。部屋で二人きりになったらやることなんて一つに決まってる。
「そうか」
 そう言っていきなり、手塚は僕のあごを持ち上げた。僕はおとなしく引き寄せられて、手塚と唇を重ねた。



***



 好き。
 手塚が好き。
 大好き。

 好きな人と一緒にいて、好きな人のことをもっと知って、もっともっと好きになって、好きな人が僕のことを好きでいてくれて、僕と一緒の時間を楽しんでくれる。
 それがこんなに幸せなことだなんて、手塚に会うまで知らなかった。
 おばあちゃんと過ごした時間より、お気に入りのウサギのコップより、転校してしまった友達より、特別に特別な幸福。このかけがえのない時間の終わりが、どうかできるだけ先のことでありますように。

 そのころ僕はよくそんなことを、心の中で願っていた。




 だからといって無理なんてしていなかった。無理をするなと英二は言ったけれど、その言葉の意味を、僕はまったく考えていなかった。だって僕らの恋愛は順調で、何も問題なかったんだ。
「中学の卒業を待たずに、ドイツに行くつもりだ」
 最上級生になったばかりのころ、そんなことを、手塚に打ち明けられたときも。

 もちろん少なからず動揺はした。留学を考えているんだろうなと想像していたし、それならそこが頃合いなのかなとぼんやりと予定を立てていたけれど、まさか卒業前にいなくなるつもりだったなんて。
「…卒業、しないの?」
「ああ。だが秋以降の話だ。全国大会が終わるまで、全国優勝を果たすまでは、日本を離れるわけにはいかないからな」
「ずいぶん先の話だね。それにずいぶん急な話だ」
 矛盾した感想を言う僕の頭に、手塚がポンと手を置いた。笑ってる。腹立つ。
「心配するな。浮気はしないぞ」
「…僕がするかも」
「させない。この体に、俺を刻み込んでいってやる」
 英二が聞いたらくさい台詞だって笑い転げるだろうか。どっちかっていうとオヤジくさい台詞だな、なんてことを僕は考えていた。けれどそう言いながら手塚の手が、僕のシャツをまくって肌をまさぐりはじめたので、僕は手塚のほおを両手で囲むと、噛みつくようにキスをしてやった。
「これ以上エッチな体にされちゃったら、欲求不満で君の代わりに抱いてくれる人を探し歩いちゃうかもよ」
「どうせならドイツまで来い。毎日抱いてやる」
「ふふ。ばか言って…」
 言いかけた僕の唇をキスで塞いで、手塚はそのまま僕の体を床に押し倒した。
「俺はいつも本気だ」

 手塚の体の下で、快楽を享受しながら、僕は決意した。
 手塚と別れたら、テニスをやめようと−−。









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